COLUMNE

ヒュー・フェリス:永遠の未来

date created : 2024.9.7

white by : doukin

バビロンはどこにでもある。あなたには、ただしいものとまちがったものがあり、まちがったものをバビロンという。
わたしにとってバビロンはそういうものだ。わたしはイギリスで産まれたかもしれない。わたしはアメリカで産まれたかもしれない。

どこで産まれたかは関係ない。なぜならバビロンはどこにでもあるのだから。

ボブ・マーリー

わたしたちは都市をただよい、いくつかの夢と、いくつかのあきらめを抱えてそこにとどまるか、あるいはそこから立ち去ることを選ぶことになる。

1910-20年代に活躍したアメリカ人建築家、ヒュー・フェリスは、生涯一度も建物を設計することなく、その名を建築史に刻んだ。彼はレンダラー、つまり建物の完成予想図やドローイングを専門に手掛けることを専門にしていたのだ。
彼が残したドローイングは、集合無意識的な都市の風景を人々の記憶に刻み、現在に至るまでその情景に影響を与え続けている。

1920年代のニューヨークは、消費主義の時代のさきがけとして、狂騒につつまれていた。アメリカの理想のため、まるで生贄をささげる神殿のようなカオスが巻き起こっていたのだ。

高さを競うようにスカイスクレイパーが立ち並び、自動車のアクセルを踏みしめながら、通りを駆け抜ける若者たち。ジャズがヒステリックに奏でられ、人々は酩酊のなか永遠の未来にたゆたう…

堅苦しい従来の建築家ではなく、人々が夢描く理想都市を抽象化し描き出すフェリスは、消費主義に浮かれるこの時代のニューヨークに歓迎され、様々な作品を手掛けていく。

彼のドローイングでは、その霧がかったようなやわらかいタッチのなか、ライトに照らされて建物が浮かび上がるのが特徴だ。

ときに古代オリエントの遺跡へのエキゾチシズムをも咀嚼し、フェリスのみせる集合無意識的な都市の風景は、そこに神話性すら内包してみせる。

見るものにいくつもの物語を思い起こされるような感傷をたたえた、集合的無意識としての未来都市。彼はまどろみの中の預言者として、神託を下しつづけた。

都市の風景が社会を、人を作っていく。立ち並ぶ建築は人々の感情を呼び起こし、インスピレーションを与えるためにその意識を持たなければいけないと考えていた。

だが、1929年の大恐慌、そして1940年のニューディール政策以降にかけて、ニューヨークもといアメリカの人々は、夢から覚めるように摩天楼への関心を失ってゆく。巨大な橋やダム、工場といったインダストリアルな建築がもてはやされ、フェリスの”神託”は過去となっていく。

だが人々は、どんな時でも夢を見るものだ。フェリスの景色は、次第に物語の世界の風景として見出されはじめた。

たとえば、バットマンが活躍するゴッサムシティだ。たしかに、大都市の憂いが生み出した社会病質的なヴィランとの戦いに身を投じる彼の舞台として、ヒュー・フェリス的な街並みが選ばれたのは当然に思える。

他にも、映画やビデオゲームなど、ポップカルチャーに影響を与え続けている。フェリスが夢想した未来は決して訪れることはなかったが、空想の都市の通奏低音として、その風景はわたしたちの記憶のなかで一層輝きを増していく。

訪れることのない永遠の未来。無限の可能性といくつもの物語は、いまも次の語り部を待ちながら、おぼろげな光に当てられた摩天楼の中で佇んでいるのだ。