COLUMNE
かりそめの理想郷
date created : 2024.9.11
white by : doukin
1893年、シカゴ万国博覧会が開催される。白亜の新古典主義建築が立ち並び、当時普及していなかった電気の力で、その威容は夜もまばゆい輝きをはなつ… 人々はこの理想都市を「ホワイト・シティ」と呼び称賛したのだった。
1851年にロンドンで初めて開催された万国博覧会は、開催される国の国力と、未来へのヴィジョンを内外に知らしめる一大プロジェクトであった。
シカゴ万国博覧会においては、わずか100年で世界の頂点に上り詰めたアメリカの「例外」性が、科学技術の発展に結びつけられながら誇示された。現代に続く「アメリカらしさ」を自らの手で定義づけたのがこの博覧会だったと言えるだろう。
そのプランでは、前回のフィラデルフィア万博で確立された、庭園を中心として複数の建物を建物を配置するスタイルを踏襲。その広さは2.78km²に及ぶ。初回のパリ万博が0.3km²、そしてシカゴ万博の7年後に行われた2回目のパリ万博ですら1.36km²だったことを考えれば、そのスケールが群を抜いていたことが理解できる。
電気で昼夜もなく煌々と照らされる古代ギリシャ、ローマの様式を引用した街並みが、「ホワイト・シティ」と称されたのは前述のとおりだ。実際には建物は石膏の張りぼてに過ぎなかったが、美観、技術、規模いずれにおいてもヨーロッパを上回ることを強く意識した、シカゴ万博の造成に大衆は熱狂した。建築家たちにも好意的に受け入れられ、のちのアメリカ都市計画に大きな影響を与えることになる。
シカゴ万博では、博覧会地区「ホワイト・シティ」以外に、過去の博覧会になかった試みとして、「ミッドウェイ・プレザンス」という遊興地区が設けられた。人々の暮らしが豊かになり、大衆が余暇や娯楽を楽しむ余裕が生まれつつあった当時の需要に応えた、いまでいうアミューズメントパークのような存在だった。
観覧車などの遊園地的なアトラクションやショーにくわえて、ヨーロッパや中東、アジアの街並みが再現され、世界の文化や風俗に触れられる見世物が無数に用意されていた。
ミッドウェイ・プレザンスはホワイト・シティに隣接する形で建設された。そして、入口が最も野蛮な「文明化されていない」民族で、ホワイト・シティに近づくにつれて「文明が発展している」ヨーロッパ諸民族の施設が配置されるというレイアウトが取られた。
つまりそこには、神に選ばれ、わずか100年でで世界を席巻したアメリカが中心となって、ヨーロッパを抑え野蛮な第三世界を啓蒙し世界の連帯を推し進める、という構図が示されたのだ。
ホワイト・シティの「ホワイト」が何を指していたのかは言うまでもなく、そこには当時の強国のあり方、つまり帝国主義をアメリカらしく解釈し自国民に喧伝する意味があった。
フルーツガム、ハンバーガー、ソーダや郵便システム、システムキッチンに歩く歩道。私たちが思い描くアメリカン・ライフスタイルを構成する要素が初めて人々に紹介されたのもシカゴ万博だった。
世界のありとあらゆる文化、芸術、科学、思想が、アメリカとそのイデオロギーと未来主義に結びつけて陳列される様相に、あのディズニーランドを思い浮かべた者もいるだろう。
面白いことに、ウォルト・ディズニーの父はシカゴ万博の建設に関わっている。そして実際にディズニーランドは常設の万博と言える存在だ。
ウォルトは、1964年開催のニューヨーク世界博覧会のうち、4つのパビリオンを出展しており、有名な『イッツ・ア・スモールワールド」はその際の展示を移築したものが始まりとなっている。
1955年カリフォルニア州アナハイムにオープンしたディズニーランド。その開園スピーチで、ウォルトはこう語った。
「このしあわせな場所に来るすべての人を歓迎します。
ディズニーランドはあなたの居場所です。
大人たちはここで、過去の懐かしい思い出をよみがえらせます。
そして子どもたちはここで、未来への挑戦と希望を味わうことができます。
ディズニーランドは、アメリカをつくり上げた理想、夢、そして厳しい事実に捧げられました。
ここが世界中の人々にとって、喜びとインスピレーションの源となることを願っています。」
ディズニーランドでは、アメリカが万博で示した帝国主義の威容は過去のものとなり、おぼろげとなったイデオロギーの亡霊がその相貌を時折見せる。かりそめの理想郷は、かつての夢に突き動かされている。
つまりわたしたちが幾度も繰り返し消費してきたあの世界とは、知的な好奇心と原初的な熱狂によって祝福される、永遠に訪れることのない未来にほかならないのだ。