COLUMNE
マッカーサー:奇譚の将軍
date created : 2024.9.1
white by : doukin
ダグラス・マッカーサーはアメリカ史上最も優れた将軍の一人として人々に記憶されている。
また、わたしたち日本人にとっては敗戦、戦後の象徴でもあるだろう。終戦後、厚木に降り立ったマッカーサーがパイプを咥えて降り立つ印象的なシーンは、様々なメディアで繰り返し挿入されている。
数々の戦果と、連合国軍最高司令官として日本を抜本的に改革したその実績は、彼を典型的な軍人らしい厳格な人物に見せる。確かに、彼にはそうした側面もあるだろう。だが、果たしてそれだけがダグラス・マッカーサーという男の全てなのだろうか。
事実、厚木に降り立ったマッカーサーの佇まいは、彼自身によって巧妙に演出されていた。
ジャケットを着用せず、第一ボタンをあけて、パイプをくわえた姿でゆっくりと降り立ち、空を仰ぎ見ながらタラップをゆっくりと下りるマッカーサー。その姿は、歴史に刻まれる瞬間にふさわしい、あたらしい指導者としての態度を見事に演じたのだ。
そう、彼はいち軍人としてだけではなく、英雄たらんと振る舞った。そして英雄に欠かせない要素、名誉欲とカリスマ、そしてロマンチシズムとエディプスコンプレックス的性格を持ち合わせていた。
高級軍人の家庭に生まれたマッカーサーは、読み書きより前に乗馬と射撃を習って育ったと自身で回想している。一方で8歳頃まで、母親によってドレスを着させられ、長くカールした髪に手入れされていた。
その後アメリカ合衆国陸軍士官学校に入学するが、ここでも母親との奇妙な関係性は続く。彼女は学校のほど近くにあるホテルのスイートルームに移り住み、息子に付き添い、時に干渉することもあった。マッカーサーと彼の母親は、互いを深く特別視していたのだ。彼がいわゆる”マザコン”という指摘もある。母と息子の強い結びつきは、生涯にわたって続き、彼に大きな影響を与え続けた。
卒業後、未来の合衆国陸軍元帥としての道を進む彼の輝かしいキャリアは想像に難くないだろう。
戦場で活躍したくてたまらなかった第一次世界大戦での彼は、参謀長でありながら、自ら前線に出るその勇猛果敢な態度で、見事評価を勝ち取ることになる。
このとき彼の戦果と勇壮さを印象づけたのは、その独特の出で立ちだった。
興味深いことに、彼は常に規則を無視した軍服に身を包んでいた。前線でもヘルメットやガスマスクを身に着けず、以降もトレードマークとなる軍帽を常に被り、母が編んだ2mを超える長いマフラーや乗馬鞭などで周囲の目を引いた。時には毛皮のコートに身を包むこともあったという。
この出で立ちのせいでドイツの将軍と間違えられ、友軍に捕虜にされたというエピソードまであるのだ。
これを彼なりのセルフプロデュースととるか、派手好きの目立ちたがり屋ととるかによって、マッカーサーをどう評価するか変わってくるだろう。いずれにせよ、彼は有能で、そして同時にはみ出し者だった。
終戦後も陸軍士官学校の校長や、フィリピンマニラ管区の司令官として急進的な態度を見せながら順調にキャリアを重ねていき、1930年には陸軍参謀総長としてワシントンに着任する。
ワシントン時代の彼のふるまいは、その尊大な態度を周囲に知らしめるに十分なものだった。
当然付き添っていた彼の母と昼食をとるため馬で毎日自宅に戻り、書斎ではなんと着物をはおりながら扇子を煽り、宝石のついたシガーケースを愛用してタバコを楽しんでいたという。そしてこの頃から、ジュリアス・シーザーに倣ったのか自身を三人称、つまり「マッカーサー」と呼んだ。
彼のロマンティシズムは第二次大戦中の過酷なニューギニア戦役でも変わることはなかった。密林に設営された司令部でパイプを咥えて着物を着ながら歩き回り、取り寄せたレタスに丸ごとかじりついていたという。
戦後日本でのくらしにおいても、彼の独特な美意識は周囲を困惑させ続けた。彼が暮らすことになったアメリカ大使館公邸は、戦災によって修復の必要があった。彼は、世界各地から家具や調度品、銀食器、そしておきまりの宝石付きシガーケースを取り寄せ、日本人の職人を抱えて自分好みの豪奢な邸宅に仕立ててしまった。息子のための玩具すら銀や象牙で作られ、召使いはアメリカの紋章入りの着物が制服だった。
彼はそのキャリアにかけて、ときには敵軍の将校と間違えられるくらい派手に、ときには19歳の新兵と変わらないと揶揄されるまでに地味に。ルールに厳格な軍隊という組織の中であえてルールを破り、過酷な戦争でも自分のやり方を貫いた。自身が思うまま、英雄らしさにこだわったのだ。傲慢な気取り屋か、歴史に刻まれるべき英雄か。彼を特別な存在にしているのは、鮮烈な戦果の背後にある、その孤独で美しい世界だ。